三田台町の由来(港区史より抜萃)
むかし禁中に貢を奉ったので御田村と唱えたという。
御田(美田)とは公田のことで、1国に1か所あったときの名が残ったものであろう。(武蔵風土記箋註「港区史」)
三田は古代の郷名である、和名抄に武蔵国荏原郡御田と載せ、日本総国風土記に、武蔵国荏原郡御田郷あるいは箕多の公穀をあげている。御田は諸国に多い地名で神領の称であるといい伝える。御田郷稗田八幡の祭の費用にあてる田、祭神等を風土記にのせているのによれば、この稗田八幡の領地から起こった名であろう。
しかしこの風土記は後年の偽書であるという(御府内備考)伊勢大神宮の神田があったので御田と名づけた。神鳳抄に武蔵国飯倉御厨とあるのがその証拠で、飯倉は御田の稲を貯蔵する倉庫があったからできた名である。芝大神宮は伊勢内宮の分霊を祭ったもので三田は伊勢の神田、御田であった。疑う余地がない。(新撰東京各所図会)
御田を三田と改めた年代はわからない。(新編武蔵風土記稿)
平家物語の木曽殿[木曽義仲]最期の条に武蔵国の住人御田八郎という名が見える。このときは三田と改まっていない。(新撰東京各所図会)
御田を三田と改めたのは古く、正保(1644〜1647)改めの国図や郷帳にも三田の字を用いている。(御府内備考)
三田村の中央に白金・今里・下高輪等の村が少しはいっており、南と北の2か所に分れている。北の1区は東は上・下高輪、南も下高輪村・今里村・白金村、西は白金・麻布の2村である。この地は府内に近く、しだいに商家ができ寛文2年(1662)延宝(1673〜1680)のころまでに町区となり、三田町・三田同朋町・三田台町・三田久保町・三田古川町・三田豊岡町・三田老増町・久保三田町・三田南代地町・三田北代地町等13か町は町方支配に属し、すべて府内の町となった。(新編武蔵風土記稿)
三田町は東は内藤山城守、松平阿波守・松平土佐守の屋敷。西は麻布善福寺門前、山内遠江守・石川左金吾の屋敷を境に、南は芝田町・芝伊皿子台町・弐本榎辺。北は有馬玄蕃頭・黒田甲斐守屋敷を境に、一円をいう。虎の門から品川までの往来筋に当たる。
三田壱町目から四町目・三田台町壱・弐町目・三田裏町・北代地町・南代地町・久保町・古川町・老増町の12か町がある。(文政町方三田壱町目書上)
芝三田豊岡町の東南は三田の台地にかかる。芝三田南寺町は三田台の西側のすそに当たる。芝功運町は三田台上の一角を占める。芝三田台町は三田台上の高所を占める。(港区史)
月の岬
伊皿子より聖坂に至る通りは、地勢が高く海辺を見おろし、月の景色がよいので、月之見崎と唱えたと「文政町方書上」にある。東都紀行の歌に「秋ならば月のみさきやいかならん名は夏山のしげみのみして」と歌われている。又慶長年間家康が、ここから海上の月を称美し月の岬と名づけたといわれる。(十万庵遊暦雑記)
三田台町壱町目は地勢が高く海辺を見おろし、月の景色がよいので町内の高札場の近辺を月之見崎と唱えた。(文政町方書上)
亀塚町
上高輪亀塚町秋月式部所持町並屋敷、田町五町目のうち、4畝26歩余は元禄
16年(1703)松平紀伊守信茲の賜地となった。(新録武蔵風土記稿)
いまは松平紀伊守信豪・久留島伊予守通嘉の屋敷[済海寺の近傍一帯の地]の所をいう亀塚とだけ称する。むかしは広い地名で上高輪ならびに三田村入会の地まで及んでいたというが、古くからここに亀塚があったことになるという。(新編武蔵風土記稿)
三田台町壱町目内、土岐山城守屋敷の北、済海寺境内一帯を亀塚という。(文政町方書上)
魚籃坂
登り3丈3尺、幅4間魚籃観音の前へ上る坂で三田台裏町を、魚籃前といった。
聖坂
聖坂の地名はむかし高野と聖という僧が住んでいて、踏み開いた坂で登りおよそ100間、幅2間4尺5寸周囲には雑草が繁り現在の坂よりもせまく、坂は三田攻運寺門前の中ほどで、三田台町辺から芝弍本榎通りへの往還であった。
攻運町
家康入国のとき三河から供してきた攻運寺の開山慶存和尚が、慶長年間(1596〜1614)桜田で家族45軒を拝領していた。寛永17年(1640)用地となり、三田聖坂に替地を下された。門前町家が許されて三田攻運寺門前と唱えた。
延享年中(1744〜1747)から町奉行の支配となった。(文政町方書上)
明治2年、三田攻運寺門前を改称して三田攻運町とした。(東京府志料)
亀塚公園
延暦6年4月11日武蔵宿祢家家刀自の古墳で三田台史蹟顕彰会会長秋元永太郎氏と町内有志の協力により、昭和24年8月29日東京都指定史蹟となる。昭和27年6月25日地元有志、区議会議員、区長等の熱烈なる陳情を得て敷地658坪を特種公園敷地として東京都が買収、港区へ無償払下げられ、昭和27年11月3日港区立亀塚公園となる。
三田台の変遷
慶応4年(1868)
7月17日江戸を東京と改称。この年神社の別当寺門前町の名称が変更された。
明治2年(1869)
2月13日東京府下の朱引内外地を定めた。3月16日町名主支配制度を廃止し、朱引内を五十区(番組)に区画した。芝三田地区は、おおむね十五、十六、十七番組に属した。4月29日町区画の整理が行なわれ、町の分合や呼称の改正があった。(町名の変更は翌3年にわたって、しばしば行なわれた)
明治4年(1871)
3月朱引内外地の境界の改定があり、朱引内の地域が縮小され、芝三田地域は朱引外となった。6月9日朱引内外が「六大区」に区画され、芝三田地域は第一大区の一小区と二小区にわかれた。6月13日朱引内は四十四区に縮小され、8月19日朱引外の大小区制を廃止して、朱引内につづけて四十五区から六十九区まで区画した。
芝三田地域は四十九区と五十区となった11月28日ふたたび大小区制がとられ、府内を「六大区」に区画し、芝三田の地域は第二大区となり、八・九・十小区に属し、明治11年に廃止されるまで続いた。
明治5年(1872)
武家地、寺社地、町地の区別廃止にともなって、この年の2月ごろから、町の起立・合併・唱替等が行なわれた。
明治11年(1878)
11月2日大小区制が廃止となり、東京府下は、15区6郡に区画され、芝区が誕生し、芝、三田地域は芝区の一部となった。
昭和22年(1947)
3月15日芝区・麻布区・赤坂区を統合し「港区」誕生、旧芝区の各町に「芝」を冠称。(本芝各町・芝浦・西芝浦を除く)
昭和27年(1952)
三田台裏町を住民のみなさんが港区に申請し、近隣町会の賛同、協力を得て芝三田台町三丁目と改称した。
昭和42年(1967)
7月1日三田地区に住所表示が実施され、町名改正されて三田四丁目となる。このとき、芝三田台町一丁目町会、芝三田台町二丁目町会、芝三田台町三丁目町会の三町会が合併して三田台町会となった。その後、芝三田功運町会も加わり、現在に至る。